2009年10月9日金曜日

栂尾

台風一過の秋晴れで、栂尾へゆきました。高い木立の中を潜るように登ってゆくと明恵上人の御廟があります。写真は御廟へ上る石段。参道に沿って流れる小川の脇に泉を囲った祠が見え、近くの石塀や大木の切り株の上には重ねられた小石の群れが。上人の座る姿を思い起こさせます。
 上人伝はまだ読んでいません。小林秀雄さんの講演筆記か何かの文章で、紀州の島にある石に、手紙を書いた人だということが記憶に残っています。手紙を書くことも、石や木の股に座ることと似ているのかもしれません。遠く隔たった何かに思いを寄せる時間が必要なのでしょう。石のように充満している白い紙の上を、インクの染みで汚し続け、石に向かってお辞儀をしたり、重なったりを重ねることしかできないのかもしれません。上人の遺訓「あるべきようは」には石や小鳥のようにあるようには暮らせない悲しさがあるように思われます。
 籠の中の鳥は自由なんだと、鈴木大拙さんが仰っていたことを、思い出します。唐突の感がありますが、昨日までの入れ物の話と今日のことを合わせて考えるとこういうことになってしまいました。この言葉に、引っかかる人は私も含めて多くいるように思います。大空を舞うことのできる鳥が動物園の折の中にあったり、また自分自身がカフカの小説の主人公のように、嫌疑をかけられて捕えられたりするとしたら、嫌な気分にならないはずがありません。嫌疑が正当か不当かなんてことは関係なく、捕えられることは、自由がなくなるのだから嫌だと、誰もが思うことで、だからこそそれが刑罰として長い歴史を持っているのでしょう。 少しお酒のせいで、話があらぬ方へ飛躍しそうなので、これも講演の受け売りですが、保坂和志さんが話したことが、このことについて、よくわかったような気にさせてくれたので、うる覚えで失礼ですが、少し紹介します。保坂さんは、プロのサッカー選手を例えにだして、グランドの中で最も自由に振舞うことのできる、または振舞っているように見える某ブラジル人選手は、ボールの自由に最も忠実な、あるいはボールの自由に身体が自動的に働く状態にある選手だというようなことを仰っていました。含み話のようで、申し訳ありませんが、私もよくわかっていないことで、これから少しずつでも、言葉を重ねてゆきたいと思っています。
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