このところ富岡多恵子さんの「釈迢空ノート」を図書館で借りて読んでいます。神戸の震災のころ大阪の大国町のあたりに暮らしていて、折口さん所縁の土地だったことを思い出します。その当時、松浦寿輝さんの本で紹介されていた折口さんの「石の中にいで入るもの」という文章を読み、盆や彼岸に墓石に向かって、語りかける姿の不思議に思い当ったことを覚えています。あの中身の充満した石が、何ものかの容器の役目を果たしてきたことは確かなことなのでしょう。そして、おそらく石に向かう経験を人間は必要としてきたのだと思います。今は大量の情報が一方通行でやってきて、対応に忙しい私は、もうその理由を思い出すことができないけれど、もう一度、少しずつでも考え始めることができたらと思っています。
2009年10月8日木曜日
ツルソバ
このところ富岡多恵子さんの「釈迢空ノート」を図書館で借りて読んでいます。神戸の震災のころ大阪の大国町のあたりに暮らしていて、折口さん所縁の土地だったことを思い出します。その当時、松浦寿輝さんの本で紹介されていた折口さんの「石の中にいで入るもの」という文章を読み、盆や彼岸に墓石に向かって、語りかける姿の不思議に思い当ったことを覚えています。あの中身の充満した石が、何ものかの容器の役目を果たしてきたことは確かなことなのでしょう。そして、おそらく石に向かう経験を人間は必要としてきたのだと思います。今は大量の情報が一方通行でやってきて、対応に忙しい私は、もうその理由を思い出すことができないけれど、もう一度、少しずつでも考え始めることができたらと思っています。
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